タイトルでいう「須く」とは、「当然に」という意味でもあり、「凡そ」という意味でも用いています。
執筆する、綴る、書くという行為には必ず苦しみが伴います。何の苦労も無くその人が「書いた」と思い込んでいるだけの文章は、単なる作業による産物であって、誰の心にも響きません。何の深みもない、必要最低限の情報伝達としてのコトバです。
そもそも物書きをする人は苦しんでいると思います。「いいや、私は楽しいぞ!」という人は、その苦しみを楽しんでいる人です。自分の思い・自分の考えを相手に伝えたいと思ったら、簡潔に、明瞭に、はたまた修辞的に、面白みのあるような、そんな文章を推敲するでしょう。文全体の構成にも(一見ポリシーがないようにみえても、むしろそのポリシーのなさ自体がポリシーであるように)書き手の意図がぷんぷんと反映されます。
苦しまなければ何かを書く必要はないし、そのまま日常を過ごしていけば問題ないはずです。物を書く人は、物を書くきっかけがあるはずで、それは苦しみだと思います。
苦しんでいる(苦しんだ)人の文章が魅力的に映ってしまうのはなぜだろうか、と個人的に考えてしまいます。本気で苦しんでいる人が更に苦しんで文章にして伝えようとしているものには、真に迫るものがあるように感じてならないのです。テキトーに完成させた学生の卒業論文より、小さな子どもが母親へなんとか伝える数十字の感謝の言葉がよいのです。
量で薄まっているわけでも、子どもという純粋さの鑑・固定観念に引きずられているわけでもないと思っています。
実はこれ、恩師の言葉を私なりに換言し解釈したものです。書き手の苦しみが大きければ大きいほど、その文章は拘りを有し、個性的なものとなり、脅威と蠱惑を放出していきます。それは読み手にとって「印象」となって残存し、読む前と読んだ後で多少の「変化」をもたらすでしょう。新たな思考パターンの獲得かもしれないし、内容への違和感かもしれないし、感情の変化かもしれないし、...
その文章に自分を投影するだけの価値があるのか。
その文章における字面外の意味の理解に時間を費やして後悔しないか。
その文章に中身や内容が本当にあるのか(空虚な文字列となっていないか)。
文章に魅力と価値を与えるのが、苦しみだと私は思います。
そんな意味で、魅力的な物書きは当然苦労人であるべきですし、凡そ魅力的な物書きは苦労人でしょう。
と、思った次第。