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「わかりやすいもの」と「わかりにくいもの」

 「日本再興戦略」(落合陽一:幻冬舎:2018)を読んでから書き留めておきたくなったことの続き(3記事目)です。もう「承前」の形式はやめて、オムニバスのような形式で、個別的に備忘録を残した方がよさそうです。書いていて後悔しています…。自分で見返したときに、記事が分かれていると見にくくなり、管理もしづらいですから。

 

 簡単、簡潔、単純明快なものというのは誰でも理解が出来て、参入しやすく敷居が低いです。そのため、「わかりやすいもの」には容易に飛びつきやすく、またその「わかりやすいもの」によって大衆は流されやすいものです。複雑で様々な要素が絡み合っているものは、(私のような)一般大衆に倦厭・敬遠されがちですが、中にはその複雑性というものの重要さと魅力に気付いている賢い人たちがいるわけです。そんな賢い人たちが一般大衆に理解可能なレベルまで迎合して、迎合しすぎて過剰な単純化をした結果、大衆からの信頼を失ってしまったというのが、ここ数年でおきたことではないでしょうか。

 言葉の定義が明確な西洋的思想と対極にあるのが東洋思想だ、と本の中で落合氏によって述べられていました。まさにその「東洋思想の世界観の理解に努めていく」ことは一見面倒ですが、魅力や利点もあると思います。本では西洋的文法と東洋的文法が登場しました。西洋的な文法は、討論による意見交換の文化によって、受け手に理解が及ぶような明瞭さが必要となります。一方で東洋的な文法では、自身の訓練・修練によって「言語体系」を完成させる必要がありますが、その分、言外の意味・行間というものが内在されたものになります。

 ところで、漢字の習得にかなりの資力を要するというその困難さは、字画が複雑だからとか、字数が厖大だからということが主ではありません。その「記号の断片」から、代表的な経典テキストの素読によって、記号体系として言語の世界を自身の修練で確立する必要があるからです。「読書百遍、意おのずから通ずる」とは、このような教育法と習得対象の特性によるものです*1

 明治期にもたらされることとなった近代というものには、明瞭さや効率性が求められます。大量かつ急速に変化する時代の要請によって効率や普遍性が重視されると、その漢字・漢文的な世界観の素養・エッセンスは恰も虚飾のように見えてしまいますからね。

 ここで大切なのは、西洋を批判し東洋を持ち上げることではなく、当時の選択と今やるべき選択を考えることや、東西両者の調和・東西両者からの取捨選択の仕直しではないでしょうか。東西を二項対立の図式に当てはめて、明確に分断して考えてしまうことから脱することこそが、脱近代だからです。落合氏の代表的なツイートの一部、『…画一的な基準を持つな。複雑なものや時間をかけないと成し得ないことに自分なりの価値を見出して愛でろ。…』*2には、このような要素も含まれているのではないかと私は考えます。

 

*1:橋本万太郎編(1983)『民族の世界史(5)漢民族と中国社会』、山川出版社

*2:https://twitter.com/ochyai/status/914382673576996864