せっかく観たので、私も感想を書いてみたくなった。
よく言われるのは、「もののけ姫」は自然と人間の共存がテーマだということ。
確かにそれは正しい。
アシタカは曇りなき眼で「双方の生きる道はないのか」と模索しながら行動していくからだ。
だが、この映画には「正しさとは何か」や「生きる苦しさ」も描かれている。
正義と正義が衝突することで生まれる葛藤。
完全な悪役はこの作品にはいない。
登場する人物・動物たちにはそれぞれの正義がある。
このページでは上記の2点に絞って感想を書いた。
「正しさとは何か」
動物や自然の側の立場を、視聴者はかなり容易く受容してしまう。
それは、分かりやすいからだ。
自然を壊すことは、良くないことだとみんな知っている。常識と言ってしまっても過言ではない。
ここで念頭におかねばならないのは、人間がなぜ自然を壊さねばならないのか、という至極当然の問いを顕在させ、きちんと意識することだ。
「俺たちの家業は山を削るし木を切るからなぁ」
男のこのセリフ、人間はやはり自然に対して悪いことをしている自覚はある。
エボシ御前は、後半のシシ神退治の印象が色濃く、あまり良いイメージは(他のキャラと比べて)ないかもしれない。
その他にも、自然を破壊する側であるという理由から、どうしても贔屓目なしには見られない。天秤を水平にしたようなフラットな目線にはどうしてもなれない。
私を含め、視聴者は「人間」であるにも拘わらず、映画で描かれる美しい「自然」の味方に"なぜか"惹かれる。
私にとってこの傾向は少し皮肉に思えて、これが「もののけ姫」の面白さでもあると思っている。
「エボシ様ときたら売られた娘をみるとみーんな引き取っちまうんだよ」
男のこのセリフは、エボシの人間としての優しさを象徴する。
「その人(エボシ)はわしらを人として扱ってくださった、たったひとりの人だ。わしらの病を恐れず、わしの腐った肉をあらい、布を巻いてくれた…」
「生きることは誠に苦しく辛い。」
包帯を巻いた男のセリフは、エボシの寛容さを表す。
その男にとってエボシが恩人なのだ。
アシタカはエボシの家を後にしたら、女衆の蹈鞴場に赴き、実際に蹈鞴を踏んで、女に質問する。
「厳しい仕事だ。」
「そうさ、4日5晩踏み抜くんだ」
「ここの暮らしは辛いか?」
得られた答えは、「下界に比べりゃずっといい、お腹いっぱい食べられるし、男は威張らない」というもの。
そしてアシタカは「そうか」としか答えない。
エボシは弱者を救済しているのだ。
そして領導者として産業を興し、経済を回す。皆で生きるために。
もののけ姫が一族の仇を討つためにエボシを狙う一方で、ヤマイヌに食い殺された者もいることも忘れてはならない。
恨みの連鎖である。
この連鎖は、相互の正義によって循環しているから、かなりたちが悪い。
アシタカはこの輪廻からの解脱を試みるのだ。
「生きる苦しさ」
アシタカはシシ神様から生かされる。
受けた鉄の弾の跡は消えて癒えたが、腕の呪いはそのままだ。
助かってよかったね~と楽観的に考えてもいいかもしれない。
だが、その呪いを受け入れ、その呪いと共に生きねばならないことは苦しい。
安易に死へ逃げられないし、アシタカもまた祟り神になるやもしれぬ残酷な運命を全うせざるをえないのだ。
そして蹈鞴場には子どもがいない。
エボシ御前による新たなクニの開拓地(フロンティア)は、強い者しか生き残れない。
谷に落ちた牛飼いは、アシタカが助けなければ見殺しにされていた。
エボシの家に住まう包帯の者たち(巷ではハンセン病患者といわれている)は、エボシのために鉄砲を制作している。
何の見返りもなくエボシは包帯の人物たちを匿(かくま)うだろうか。
人間の共同体は、誰かが誰かの役にたつような居場所を有している。
それが自ら獲得したものか、他者から与えられたものかの区別もしない。
役に立たない、つまり居場所が無い者はフロンティアでは生きられない。
自然という便利な資源をつかって、技術を用いて、人間の居場所を作るのだ。
感想
いろいろな媒体でいろいろな「もののけ姫」の感想を拝見すると、流石、宮崎駿であって、十人十色の考察や感想を各々に持たせている。
ある程度有力な「説」は有名なブログや著名人が根拠立てて説明している通りだが、断定はできない。
それはまさに、作品中でも宮崎駿自身も断定していないからである。
断定しないことで我々視聴者に考える余地(「遊び」や「メッセージ」と言ってもいいかもしれない)を与えているからこそ、「もののけ姫」は多くの人を魅せる作品になっているのだ。