落合陽一氏の「日本再興戦略」(幻冬舎:2018)を購入しました。YouTubeで検索すると、落合氏本人が内容を解説しているWeekly Ochiaiの動画たちがあったため(そのリンクはここでは貼りません)、それらと併せて読むと何を言わんとしているのかがわかりやすくなりました。話題となっている本であり、著者が著者であるだけにこのような形での扱い方に苦労します。この本に関する書評や感想は様々な方がきっと既に心に抱いているでしょうし、文章化している人もいるでしょう。
私はこの場でのこの本の直接的な要約や概要紹介は避けて、多少の私の雑感と落合陽一以外の要素とあわせながら、自己満足的で、本の内容から脱線するような展開の内容を含む文章を心がけようと思います。敢えてタイトルには著者名も書名も入れませんでした。あくまで個人の備忘録としてのブログだからという意味合いもありますし、せっかくなので色々な要素を混ぜることで、新しい発見や出逢いが生まれれば幸いという気持ちです。そもそも現時点で他の落合氏の著作に対して私は明るくないため、書こうと思っても書きづらいですし、面倒くさくてストレスが生じてしまうでしょう。がっつりとした読書感想文や書評ではないということを留意願いたいです。
また、けっこう備忘録として残しておきたい箇所や、自身の頭なりに、本自体の内容から派生して思ったことや考えたことが多かったため、いくらか備忘録を分割して投稿することでしょう。
本の中でも述べられていましたが、平易な文で注釈が丁寧な印象を受けました。よく目にする語でも文脈の中での使用意図が曖昧になる瞬間はあります。広く人口に膾炙していて抽象度の高い語句ほどこの傾向は強いです。この読み手を意識した形式は非常にありがたかったです。自分がこのブログで参考にするとは限りませんが、相手にあわせた体裁で、執筆の目的と意図に沿った文章を日常で書く際には参考にしたい点であります。
本題、タイトルの内容に関して。
学校教育というものは近代の象徴であるということは前回の私の備忘録にも残しましたが、落合氏の再興における脱近代という文脈の話では、東浩紀氏のポロっと口に出た「小学校的な日本社会」という、近代の宿痾が問題となっているという類似点があるような印象を受けました。明治期の均一的・画一的な教育という形が現代にも残存しており、制服やランドセル、整列の際の「前倣え」、1対多の一方向的な劇場型の教育(落合氏の表現から引用)などがそれです。この「均す」ような近代的教育が明治期に急ごしらえされ、それが現在まで色濃く残っているとすると当然歪みが生じて大きくなっていることが予想されるでしょう。近代的で均質な教育を維持していくと、平均からの逸脱者が目立ちます。平均を上回る者は煽てられて場合によっては嫉妬の対象となり、平均を下回る者は馬鹿にされます。それらの逸脱者は一絡げにマイノリティとされて許容されず、分断のおそれがあります。そのまま西欧的な「個人」というものを日本が目指し、自ら協力的依存を断ち切ってきたことで、孤独感と過度な分断が日本にもたらされたのでしょうか。
日本において近代が宿痾として現代に維持されている原因の一つに、「均質状態から脱却したくても出来ていない」ことがあると私は思います。マスメディアによる統一された価値観の提示と、トレンディドラマによる画一的な誰もが憧れる理想の人生サンプルの流布が、本の中でも「罪」として登場していました。これらのような凝固した平均から脱出しようと人はSNSに手をだします。同質なものの中から「自分とは何か」を考え、自己を主張する手段として使用可能だからです。SNSは現状の自己肯定の装置であると同時に、僻み嫉み妬みの増幅装置でもあります。そのため、東氏の言う「小学校的な日本社会」のような、「あいつが成功しているのに俺が成功しないのは何事だ!」というマインドにより、自己の研鑽よりも他者の蹴落としに力が注がれてしまいます。蹴落としのような冷酷な競争によって、「年収」や「学歴」、「家柄」「地位」等々を武器としたマウンティングが展開されやすくなり、自身の選択肢を狭めてしまって…。そんなことを私は考えてしまいました。
「教育」というテーマと「近代」というテーマは私にとって非常に興味がある(と気付いた)ため、継続的に学んでいくべきだなぁと執筆時点の今の私は考えています。今まで提示されてきた凝り固まった価値観や、落合氏の言うところの「拝金主義」、「ワークアズライフ」、その他諸々まだまだ文章にしたためておきたいことはあるため、再び小分けに投稿します。
また蛇足ながら、今回から「だ、である調」から「です、ます調」にしました。