カタカナの「ベンキョウ」は上っ面だけの表面的な点取りベンキョウ。
漢字の「勉強」とは区別して書こうではないか。
はじめに:何のために勉強する?私の学生時代のベンキョウ
ところで、私は学校のベンキョウというものを自分のアイデンティティのためにしてきたのだと思う。
学校のテストでは、その日まで授業でベンキョウしてきたものを、解答用紙に反映させるのだ。
ペーパーテスト・試験の際には、みんなが忘れやすい箇所、みんなが手こずるような難易度が高めの箇所というものが当然登場する。
そのような箇所でも対策を怠らずに解いて、高い点数を取り、マルだらけの解答用紙が返却されることが快感であった。
小学校ではかなりの割合の子が高い点数を取るが、当然、中学高校とステージが上がっていくと、もちろんその割合は減ってくる。
小学生:点を取りたい
小学生の頃の私は「漢字」が特に好きで、1問2点配点の「漢字50問テスト」の前日はいつも頑張っていた記憶がある。
算数でも社会でも理科でも、先生の話を聞いて真剣にベンキョウすれば高得点はとることができる。
間違ってしまったときは、先生やテストの作製会社の「大人たち」に負けた気がして悔しくて、毎回テストの際は、絶対に満点をとってやるぞ!という意気込みであった。
両親はそのベンキョウの過程や結果を見ると喜んでくれたため、それが嬉しくて私のベンキョウに対する頑張りを加速させてくれた。
中学生:自分のポジションを獲得する経験
私がベンキョウでアイデンティティを最も感じたのは、中学生の頃だった。
中学受験組と公立中学組に分かれ、小学校のときよりも広範囲から生徒が通うわけで、自分のコミュニティに少し広大と変化がもたらされる。
その中で自分という存在が、どのような立ち位置でいるべきかを考えた。
特別、運動が出来るということはない。
特に容姿に自信があるわけではない。
面白い話で人を引きつける話術にも、クラスをまとめるようなリーダーシップにも、特筆する点がない。
「ベンキョウならばこの調子でいけばソコソコ出来るのでは?」と考え、事実クラスメイトからテスト前には質問されるくらいにはなったし、定期テストで1位をとることもたまにあった。
私はここで“ベンキョウができる”という立ち位置を得た。
高校生:歪んだ考えに囚われる
高校生になるとそれが通用しなくなる。
高校受験ではなんとか第一志望に合格することができたが、当然私の周りは、同じような学力の集団へとコミュニティが再編成されている。
入学してから最初のテストである前期中間試験では、下から20番目前後だったことを記憶している。
試験の結果自体にもショックを受けたが、何よりもショックだったのが、自分の拠り所を奪われた気がしたことだった。
小中学校の“ベンキョウができる”というキャラクターが通用しない以上、より一層ベンキョウに励んでいくか、他のことで自分に自信があることを探していく必要があった。
一度ここでベンキョウに挫折したが、ソコソコ出来るまでには巻き返した。
ただし、ソコソコ出来る程度までだったため、高校の3年間は私にとって「自分とは何者か」というアイデンティティを探し続ける期間であった。
私は現在、大学受験担当の塾講師のような仕事をしているが、このように高校生になってから挫折する子は、比較的優秀な進学校に多い。
まるで過去の私自身を見ているようで、救いたくなる。
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特筆すべき点がある者を羨ましがり、学校では斜に構えた態度をとっていた。
凄く出来る奴も凄く出来ない奴も両者とも目立つ存在であるため、当時の私からすればどちらも特筆する点がある者であった。
馬鹿になりきる勇気も無く、開き直ることも躊躇う。
かといって秀才にもなりきれない。
中途半端者で、自分がそんな目立つ奴らにとってのエキストラ「同級生A」のような没個性的な存在であるのではないかと、不安や怒り、孤独が入り交じって混沌とした気持ちだった。
やはり、特筆すべきものの存在はわかりやすいアイデンティティの象徴だから、私はそれを欲していたのだ。
今思い返せば、「嗚呼、このようなことで苦しむのも青春だなぁ」と懐古するばかりである。
後悔はしていない。
大学で本当の「勉強」を知る
大学ではだんだんと「ベンキョウ」が通用しなくなり、「勉強」というものの重要性と楽しさを感じた。
ここまで私がしてきた「ベンキョウ」というものは、他者との比較によって自身の位置づけを行なう、生存戦略としての“作業”であった。
ときにはベンキョウという尺度で自分より下の者へマウントをとったり、ときにはその尺度で自分より上の存在を羨望と嫉妬の対象としたりすることがあった。
なんと狭隘な価値観に終始していたのだろう。
おわりに
ところで、インターネットで「学歴」を検索することは精神衛生上よろしくない。
特に本来の意味から乖離した、学校歴として「学歴」を扱うネットの場所の大半では、他者より“スグレテイル”こと(もちろん皮肉としてカタカナで書かせてもらった)を簡単に示す、張り合いの道具として使用されている印象を私は受ける。
「マウンティングしたいだけでしょ?」的な。
大学では、この自分の立ち位置を認識するためのベンキョウから脱し、相対的な自分の位置とは別の、絶対的な自分の存在について有益な勉強もするように心がけた。
学生時代までの、私のアイデンティティに関するベンキョウの話。